旅するようにくらす

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自分の強み

誰しもが強み、才能を持っている。

それは、自分だけのもの。

ただ得意とか好きというだけのレベルではなく、もっと深いところにあるものだと思う。

 

それを生かした生き方ができればどんなにいいだろう。


例えば、趣味で○○をやっていたが、それが転じてビジネスをはじめ成功した、なんで話も聞いたことがあるはず。

 

しかし、自分自身でそれを知るには時に時間がかかる。
色々な経験や興味、視点を持つ事でわかることもある。
また他人の協力を求めるのも悪くない。ただ客観的な視点から気づいていることはないか聞いてみる。自分では気付きにくいこともあるからだ。
もしかすると自分だけの強みは一つや二つではないかもしれない。

 


勉強でいい成績を取る必要はない、十人十色、自分の個性を大切に。あなたはコミュニケーションを取るのが得意で友だちが多い。その人脈は財産で一生の宝だ。

そう言い続けてくれた親がいて私は幸せだと思う。

 

強みは努力をすれば作ることもできるかもしれない。それでいて、才能は作るものではく自分の中にすでに存在している何かなのである。


先日、こんな記事をみつけた。

www.huffingtonpost.jp

この先生の考えはよくわかる。

この子は自由時間に友だちと遊ぶという選択肢もあると知っていて、あえて好きな読書をするという選択をしている。彼女(もしくは彼)は「読む」という、誰でもが絶対的に得意というわけではない行動に価値を置いている。将来の社会性を心配して友だちと遊ばせようとするのはすごくよくわかるが、それは一種のコントロールでもある。


その行動は、将来の著名作家の時間を奪う行為かもしれない。
将来素晴らしい文章を書く記者の邪魔をしているかもしれない。


大げさかも知れないが、それが本人の「強み」になりえる個性かも知れないということを第三者が認めることは大事だと思う。特に子どもの教育においては重要なことではないか。

 

もちろんやるべきときにやるべきことをやるのは大切。ルールや秩序を守ることも必要。
でも自由時間の使い方は誰に決められるものでもなく、邪魔されるべきものではない。

 

その時間の使い方こそに、個人の強みを伸ばすチャンスが潜んでいる。

 

 

自分だけの価値に光をあててみる。

 

 

 

 

 

 

先生?それとも…

 その子の親でない限り完全な責任はこちらにないと無意識のどこかで思っていて、何かに頼っている。
問題をまぁいいや、いつか気づくだろうという勝手な責任放棄状態になって、それが大きく子どもに影響することを忘れる所だった。

 

昔ある友人から、お前は何を目指してるんや?教育者になりたいのか?

 

その時はぼんやり、私の夢はそんな大それたことではないと思っていたが、今ははっきりとその目指している所が見える。

 

今年から地元の幼稚園のボランティアをし始めた。入らせてもらっているクラスの先生はその道27年のベテラン。毎日先生からももちろん生徒たちからも学ぶことだらけだ。


子どもにとっての先生とは、親と接する時間より長く居ることもあり、ある意味親以上に影響力がある。
それ故、責任が伴う。

親以外の大人として、その一人の人間の人格や考え方を作る軸にもなりえるのだ。

 

では、「先生」としてどのように振舞うべきか。

 

ゲームや遊びを充実させ、生徒と友達のように親しくする。そういう「楽しい」を重視した授業に焦点を置く。

それとも、生徒が主体となって考えられるような本当の意味で学びのある授業を考える。もちろん前者は子どもは「楽しい」のだから、楽しむ。先生のことを好きになり、一緒に遊んでいる感覚になる。

それ故、自分の好き勝手な言動を始め、環境をコントロールしようとするものまで現れる。挙げ句の果てには、考えることを面倒くさいと思わせることにもなり得るかもしれない。

 

後者はより指導スキルや経験がいるのかもしれない。ただ生徒は先生を「先生」として見るだろう。例えば、やるべき時に勝手に振る舞おうとする生徒に、「今はダメ!!これをやりなさい。」とプレッシャーを与える代わりに、何が今大切で、何をしないといけないのかを問い、正しい選択をさせるのもその役目だ。

 

一つの授業に対してどちらの要素も大切だがそのバランスが実に難しい。的確なタイミングで的確な指導をしなければ、学ぶ意欲を削ぐどころか、先生の存在を認めてもらうことは難しい。

 

この人から何か学ぶことができそうだ、なにかを吸収したいと思わせることができたなら、確実にその存在価値はあると思う。

 

 

人間は本能的に学びたいという欲が備わっている。

 

プロになるには時には心を鬼にして、向き合わなければならないときもある。

 

 

 

 

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アートクラスにて、熊の絵を鉛筆で輪郭を描き、筆やスポンジでペイントしていく。

一つの説明から、何通りもの個性的なアートができる。

教育の持つ力

人の人格や考え方はどのように作られていくのだろうという私の中の永遠の疑問。

 

それを今年はより掘り下げて探っていこうと、あることを初めてみた。

現地教育機関でのボランティアだ。

ボランティアといっても私のできることは今はまだ限られていて、毎日が学ぶことの連続。

 

前から幼児教育に興味のある私に、ラッキーなことに長年の経験をもつ先生を紹介して頂くことができたのがキッカケだったのだけれど、この経験は今後の人生に大きく影響すると思っている。

 

まず、最初に衝撃だったのが、カナダでの教育方針は私が日本で受けてきた教育と全く違うという事実。もっとも学校によっても方針はさまざまだろうがあくまで私の体験に基づいた話。

 

欧米は物事に対する発想が自由で個性を認めあうことができる良いところがある。と聞いてはいたが、これまでも違うということに日本で曲がりなりにも英会話教師をしていた私にはショックだった。

 

具体的に例をだす。

 

例えば「自由時間」。もちろんそれも授業の一環だが、ただ遊ばせるだけではなく個人のスキルを伸ばすことに焦点を置いている。

もちろん、絵を描くのが得意な子もいればパズルを組み立てるのが好きな子もいる、ビー玉を転がすマシンを作ることに必死になっているグループもあれば、ままごとを楽しむ女の子たちもいる。

一つのことを無理やりさせることはない、これでなければいけない、ということもない。

それはまるで社会の縮図のようで、色んな子がいて当たり前と知らず知らずに認め合える環境がそこにある。多民族国家でさまざまなバックグラウンドをもつ子どもがいるという事も一つの要因だといえるだろう。

 

問題が起きれば先生が仲介に入って止めるのではなく、自分たちでどうすれば解決できるのかを考えさせる。

頭を打った子がいれば自分で頭をさすらせて呼吸を整える事を教える。やり方を教えて考えて実行させるのだ。

 

まだまだ脳の発達段階でそのような「自分で考える」教育を受ける事は重要な意味があると思う。

5.6歳の時点で教室ないし家庭で教えられたことは人格形成の基礎となりうると強く確信する。

 

 

古くからの歴史、伝統を重んじる日本の社会では常に誰か上に立つ人がいて、学校では先生、職場では上司、家では親など、位置付けることが当たり前で、誰かの指示で動く事が「普通」になっている。更に私たちは島国の単一民俗という事も手伝って、それが常識化し、出る杭は打たれる状態になっているのだ。

 

そしてそれが文化として根付いている。謙虚さ、品、和という日本独特の美しい文化がある一方、変える、変わるという事に時間を要するのも事実だ。

 

特に教育業界に焦点を置くとすれば、それの証拠にここ彼此10年以上前から討論され続けてきた「英語教育」に対する国の対応の遅さ。2013年から本格的に小学生に英語を教えるということになったが事実学校によってその教育基準が違うことが問題視されていたり、指導者不足、中高との連携などまだまだ問題が山積みだ。

それはあくまでも一例だが、前述した文化背景が社会、そして個人にも大きく影響しているといえるのではないか。

 

どちらが良い悪い、合っている間違っているという話ではない。

日本の教育は現に世界的にも水準が高いと認められている。そういう事情に気づいたことを生かして、その教育を受けてきた事に誇りをもち、他を真似するのではなくその良さをもって自分には何ができるのかを考えたい。

 

 

そしてそれはきっと誰もができる事ではないと、そう信じて子どもたちとの接し方を考えていこうと思う。

 

 

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Kids're doing their show and tell.

This is my new challenge and learnig.

 

一人一人が自分のお気に入りのアイテムを持参しそのアイテムの良さ、学びにつながるポイントを発表する。それに対しての質問やコメントを手を挙げて発言する子どもたち。彼らの主体性と失敗を恐れない度胸に拍手!

 

 

 

 

 

 

 

注意力散漫?

私はマルチタスクな人間ではなく、前々からちょっとドジでだらしないところがあると自覚はしていたが、最近えらく忘れることが多いし、一つのことをやっていると他のことが出来ないという事実に改めて気づいている。友達の話もまともに理解出来ないこともあるほどだ。

 

どうもただ疲れているとかいうレベルではないらしい。本気で「注意欠陥多動障害」という名の病名を調べてみた。

 

うーん。

でも、多分そんなんじゃなくて、単に脳を甘やかしすぎてるんだな。脳トレしないと、まじで真剣に。読んだり書いたり(しばらくブログもサボっていたし)計算したり、そうゆう訓練をしないと人間の脳は腐って行く気がする。腐る。

 

人間の脳は学ぶ用に出来ている。脳がなにか刺激を欲している。

 

 

 

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あぁ、脳が溶けそう…

 

夢の実現

学ぶことを忘れてはならない

 

戦うことを恐れてはならない

 

夢を諦めてはならない

 

 

ここカナダにきてそれらを体感し、誰のものでもない自分自身の人生を切り開いて行く楽しみを知った

 

 

時には、いつ落ちるかわからないロープの上を歩いている感覚に見舞われる

 

地に足がついていず、そこから少しでも踏み外すとどうなるかわからない不安感を一歩一歩の成功の喜びでかき消しているような感じ。

 

そもそも今渡っているそこにあるロープまでどのように辿り着いたのかすらわからない。それは運やタイミング、それから何かしら自分のして来た事と関わりがあるように思う。

 

一歩一歩が貴重で無意識に数えてしまう癖をもつ。

知らずに自分を追い込んでいるのかも。たまにぐらぐらと揺れるそのロープは安定という言葉をしらない。

 

わたしがそんな不安定な所を歩いていると知って手を差し伸べてくれる親切な人たち。

大丈夫、渡りきれるよ、と言ってくれる。

 

そして私は自信を取り戻す。

 

 

今年も残すところあと一週間。私にとっては、人生の節目、とも言えるような怒涛の2016年だった。

 

 

 

一歩一歩、大事に重ねてきた歩みを価値のあるものと考え、新年を迎えたいと思う。

 

 

 

 

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I am walking on this fantasy trail

ホットヨガ

みなさんこんにちは。

はい、わたしです。昨日吐きましたわたしです。
(このブログには不清潔な表現が含まれています。食事中の方は注意してください)

 

昨夜、ルームメーメイトに誘われてホットヨガに行ってきた。
初めてではなかったのでヨユーぶっかましていったのが間違い。


まず家からトロトロ歩いて行ったら思いの外遠くて、遅刻したみたい。
通常遅れたら入れないんだけど、ラッキー?な事に先生も遅れてて、「今から始めるし早よ入り!」みたいなことを言われる。(お得意の関西弁訳)
はいよ、準備を済ませ、マットとお水ボトルをしっかり掴んだ私はヨガの部屋に入る。

 

くっ!!くっせーーー!!!!!!

 

 

ヨガのお部屋は37.8度に設定されていて、湿度が高い。しかも男性陣の多いこと。既に汗まみれのおっさんら、ヤバヤバ。

入ったのが最後だったので、私は有無を言わされずおっさんとおっさんの間でやる事に…。嫌な予感がする。
90分も耐えられるだろうか。

 

最初のポーズ、まずまず。やったことあるのでわかるわかる。ポーズもバランスを崩さないようになんとか頑張ってみる。フラフラしながらもなんとか出来なくはないかな。

 

でも…おっさんから異臭が漂って来る。特に左の。見ると超汗まみれでグロテスクな、、(失言をお許しください)しかも私のマットに汗がたくさん飛んでくる。ひえーー


段々臭いと暑さに耐えられなくなってくる。右のおっさんも相当へたばってきたのか、「うー」とか「あー」とか「おまいがー」とか言ってる。

 

本来なら身体伸ばして、汗かいて気持ちいいー!となるはずだが私の集中は鼻の不快感に行ってしまい、中々ヨガを楽しめる状況ではない。
それこそオマイガだ。

 

心身ともに疲れ切った私はついにポーズを諦め、死んだように座っていた。

 

 

するとまた災難が。
さっきから今日このスタジオに初めてきた私を気を遣ってか、「ヘイニューフレンド、もっと足広げて」だの「手の位置が違う」だのやたらめったら私に厳しいインストラクターがこうまくし立てる。

 

「ヘイ、ニューフレンド!諦めんな!まだポーズはあるぞ!君は日本人だろ!次は君の得意な正座だ!さぁ座って。ビクラムというのはインドの言葉だ。日本でもよく知られているだろう?日本人は真面目で忍耐強いはずだ!!」

 

いや、すいません先生。わたくしそのテンションについていけませぬ…。
トランクス一丁、胸と背中に別々の家紋のような刺青をいれたその男は執拗にわたしを攻めて来る。

 

うつ伏せに体を倒した時、胃が圧迫され一気に吐き気に支配される。


扉を指差し、「出ていいか?」というサインを送ってみる。

 

「あかん、今出たら死ぬぞ!!」
くらいの勢いのスパルタインストラクター。

 

いや、今出なければ死にます。

 

扉をでた瞬間トイレに駆け込み
おえーーーっとでるでる。

 

そしてその後、頭と鼻の激痛が就寝まで続く事になる。

 

他の生徒さんたちは体を心配してくれるのかと思いきや、「最初はみんなそうだから、わたしもしんどかった。でも次は頑張ろうね。」

 

「うーん……失笑。」

 

怒涛の90分が終わり、私のところに来たトランクス家紋は何を思ったのが、「明日もくるよね!ナイストゥミーチュー!!」と去って行った。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

 

と、いうわけで。久しぶりのホットヨガは九死に一生を経て幕を閉じたのであった。

 

 

リメンバランスデイ

北米太平洋時間の本日11月11日はリメンバランスデイという国民の祝日である。

アメリカでいうと5月のメモリアルデイ、日本でいうと第二次世界大戦終結の8月15日という位置付けになる。

 

ここカナダでは第一次世界大戦時イギリス連合国として戦い、終結を迎えた11日を戦没者追悼記念日としている。

 

昨日は、某地域団体の記念式典に参加してきたのだが、この祝日はお祭り騒ぎではなく、国の為に命を捧げた兵士へ敬意を払い、現在の平和に感謝するという考えのもと成り立っている。

 

国民がこの日を忘れないことで未来への希望を持つこと、次世代に愛国心を育てることの意味を改めて感じた。

 

 

 

また一つこの国のことを学んだ。

 

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