旅するようにくらす

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教育の持つ力

人の人格や考え方はどのように作られていくのだろうという私の中の永遠の疑問。

 

それを今年はより掘り下げて探っていこうと、あることを初めてみた。

現地教育機関でのボランティアだ。

ボランティアといっても私のできることは今はまだ限られていて、毎日が学ぶことの連続。

 

前から幼児教育に興味のある私に、ラッキーなことに長年の経験をもつ先生を紹介して頂くことができたのがキッカケだったのだけれど、この経験は今後の人生に大きく影響すると思っている。

 

まず、最初に衝撃だったのが、カナダでの教育方針は私が日本で受けてきた教育と全く違うという事実。もっとも学校によっても方針はさまざまだろうがあくまで私の体験に基づいた話。

 

欧米は物事に対する発想が自由で個性を認めあうことができる良いところがある。と聞いてはいたが、これまでも違うということに日本で曲がりなりにも英会話教師をしていた私にはショックだった。

 

具体的に例をだす。

 

例えば「自由時間」。もちろんそれも授業の一環だが、ただ遊ばせるだけではなく個人のスキルを伸ばすことに焦点を置いている。

もちろん、絵を描くのが得意な子もいればパズルを組み立てるのが好きな子もいる、ビー玉を転がすマシンを作ることに必死になっているグループもあれば、ままごとを楽しむ女の子たちもいる。

一つのことを無理やりさせることはない、これでなければいけない、ということもない。

それはまるで社会の縮図のようで、色んな子がいて当たり前と知らず知らずに認め合える環境がそこにある。多民族国家でさまざまなバックグラウンドをもつ子どもがいるという事も一つの要因だといえるだろう。

 

問題が起きれば先生が仲介に入って止めるのではなく、自分たちでどうすれば解決できるのかを考えさせる。

頭を打った子がいれば自分で頭をさすらせて呼吸を整える事を教える。やり方を教えて考えて実行させるのだ。

 

まだまだ脳の発達段階でそのような「自分で考える」教育を受ける事は重要な意味があると思う。

5.6歳の時点で教室ないし家庭で教えられたことは人格形成の基礎となりうると強く確信する。

 

 

古くからの歴史、伝統を重んじる日本の社会では常に誰か上に立つ人がいて、学校では先生、職場では上司、家では親など、位置付けることが当たり前で、誰かの指示で動く事が「普通」になっている。更に私たちは島国の単一民俗という事も手伝って、それが常識化し、出る杭は打たれる状態になっているのだ。

 

そしてそれが文化として根付いている。謙虚さ、品、和という日本独特の美しい文化がある一方、変える、変わるという事に時間を要するのも事実だ。

 

特に教育業界に焦点を置くとすれば、それの証拠にここ彼此10年以上前から討論され続けてきた「英語教育」に対する国の対応の遅さ。2013年から本格的に小学生に英語を教えるということになったが事実学校によってその教育基準が違うことが問題視されていたり、指導者不足、中高との連携などまだまだ問題が山積みだ。

それはあくまでも一例だが、前述した文化背景が社会、そして個人にも大きく影響しているといえるのではないか。

 

どちらが良い悪い、合っている間違っているという話ではない。

日本の教育は現に世界的にも水準が高いと認められている。そういう事情に気づいたことを生かして、その教育を受けてきた事に誇りをもち、他を真似するのではなくその良さをもって自分には何ができるのかを考えたい。

 

 

そしてそれはきっと誰もができる事ではないと、そう信じて子どもたちとの接し方を考えていこうと思う。

 

 

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Kids're doing their show and tell.

This is my new challenge and learnig.

 

一人一人が自分のお気に入りのアイテムを持参しそのアイテムの良さ、学びにつながるポイントを発表する。それに対しての質問やコメントを手を挙げて発言する子どもたち。彼らの主体性と失敗を恐れない度胸に拍手!