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旅するようにくらす

明るく楽しい、旅するブログへよ〜こそ

先生?それとも…

 その子の親でない限り完全な責任はこちらにないと無意識のどこかで思っていて、何かに頼っている。
問題をまぁいいや、いつか気づくだろうという勝手な責任放棄状態になって、それが大きく子どもに影響することを忘れる所だった。

 

昔ある友人から、お前は何を目指してるんや?教育者になりたいのか?

 

その時はぼんやり、私の夢はそんな大それたことではないと思っていたが、今ははっきりとその目指している所が見える。

 

今年から地元の幼稚園のボランティアをし始めた。入らせてもらっているクラスの先生はその道27年のベテラン。毎日先生からももちろん生徒たちからも学ぶことだらけだ。


子どもにとっての先生とは、親と接する時間より長く居ることもあり、ある意味親以上に影響力がある。
それ故、責任が伴う。

親以外の大人として、その一人の人間の人格や考え方を作る軸にもなりえるのだ。

 

では、「先生」としてどのように振舞うべきか。

 

ゲームや遊びを充実させ、生徒と友達のように親しくする。そういう「楽しい」を重視した授業に焦点を置く。

それとも、生徒が主体となって考えられるような本当の意味で学びのある授業を考える。もちろん前者は子どもは「楽しい」のだから、楽しむ。先生のことを好きになり、一緒に遊んでいる感覚になる。

それ故、自分の好き勝手な言動を始め、環境をコントロールしようとするものまで現れる。挙げ句の果てには、考えることを面倒くさいと思わせることにもなり得るかもしれない。

 

後者はより指導スキルや経験がいるのかもしれない。ただ生徒は先生を「先生」として見るだろう。例えば、やるべき時に勝手に振る舞おうとする生徒に、「今はダメ!!これをやりなさい。」とプレッシャーを与える代わりに、何が今大切で、何をしないといけないのかを問い、正しい選択をさせるのもその役目だ。

 

一つの授業に対してどちらの要素も大切だがそのバランスが実に難しい。的確なタイミングで的確な指導をしなければ、学ぶ意欲を削ぐどころか、先生の存在を認めてもらうことは難しい。

 

この人から何か学ぶことができそうだ、なにかを吸収したいと思わせることができたなら、確実にその存在価値はあると思う。

 

 

人間は本能的に学びたいという欲が備わっている。

 

プロになるには時には心を鬼にして、向き合わなければならないときもある。

 

 

 

 

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アートクラスにて、熊の絵を鉛筆で輪郭を描き、筆やスポンジでペイントしていく。

一つの説明から、何通りもの個性的なアートができる。