旅するようにくらす

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八日目の蝉 〜大人の読書感想文〜

 

 

なぜ自分は自分なのか?

 

 

最近考えることがある。人間の性格や考え方はどこから来ているのか。

前世か、遺伝子か、それとも生まれてからの環境なのか。

私はどれもその答えだと思う。特に重要なのは生まれてからの環境だ。

人間の身体、脳というのは実に巧妙にできており、この世に生まれ出てから現在までの繋がりのことを少なからず記憶している。

 

もっと具体的にいえば、出会った人とその会話、幸せなこと、楽しかったこと、嫌なこと、寂しかったこと、驚いたこと、などの感情が無意識のうちに記憶として刻まれ、それが人格として形になっていくのだと思う。

 

小説「八日目の蝉」は生まれたばかりの赤ん坊が何者かによって連れ去られ、その女の手で4年間逃亡しながら育てられる過程をフィクションとして描いた話である。

 

生々しい人間模様と物語の展開におもわず感情移入してしまう。

以前に正しいとか間違っている、という観念はあるようでないというようなことを書いたが、(いつかのブログ「正しさと幸福」参照)その捉え方はさまざまだ。

 

例えばこの本に出てくる誘拐犯は本当に悪者だろうか。犯罪はもちろん社会のルールで犯すべきものではないと定義されている。しかし、この誘拐犯を応援するとまではいかなくとも恐ろしく感情が揺さぶられるのはなぜだろう。

 

わたしには感情があるからだ。

理性的、合理的に物事を解決できる力も時に必要である。

ただ生身の人間である限り感情というのは少なからずあるはずだ。

 

蝉に感情があるのかはわからないが、その短い一生に思いっきり鳴いて、その後は抜け殻だ。

人間はもっと複雑な生き物だと思う。

いくらシンプルが良いと考えても複雑だ。

だから生きるのは時に難しく感じる。

 

例え何があろうと、旅でどんなハプニングが起ころうと自分がここにいる限り、地に足をつけて歩いていかねばならない。

だからこそ、予期せぬ素晴らしいものに出会うこともできる。

かと思えば、もうこの世の終わりかというほど辛い出来事も起こる。

 

人には基本的にそれをコントロールする力があるようにできていると感じる。

 

自分はどこからともなく来たわけではない。

いるべくしてこの場にいることを、何かに押されてきたのではなく、理由があることを、そしてこれからも自分の全ての小さな選択が自分を作っていくことを確信している。