旅するようにくらす

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パスポート更新

パスポート期限切れの危機が迫っていたため、先日更新に行ってきた。

 

パスポートを更新するには当然ながら証明写真がいるわけで、その写真を撮るべくどこで写真が撮れるか調べてみた。

 

今私の住んで居るところではそんなに証明写真機ならぬのものを見かけたことがない。

単に注意を払っていなかったからだけのことかもしれないが、私の記憶が正しければ、日本なら5メートルおきに(まあそれは言い過ぎか)証明写真機がある。

多分、履歴書や免許証にも写真を貼るから需要が高いが故だと推測。

 

兎も角、領事館のの近くに4枚10ドルで証明写真を撮ってくれるところがあると事前にネットで情報を得てそこに行ってみる。

 

その住所につくと、小さな商業複合施設のようなところの角に売店があり、奥になにか印刷屋のような看板がでていた。

入り口に小さく色あせた「証明写真とります」的なサインを発見。

なんとなく奥の印刷屋に入っていく。

 

「あの、パスポート用の証明写真とりたいんですけど・・」

 

「ああ、それなら角のタバコ屋よ。」

 

「えっ、あの小さい売店っすか?」

 

「そう、行ってみて。」

 

「・・・・・・。」

 

 

その小さなタバコ屋と言われた小さな売店にはいると閑散とした店内に中国人女子が一人。

 

「あの、パスポート用の写真がとりたいんですが・・・。」

 

彼女は早速めちゃくちゃ中国語なまりの英語で、

「オッケ。ワットカンツリーパスポートユーニードゥ?国によってサイズが違うからね。準備できたらその椅子に座って。」と説明しながら、カメラを掴んだ。

電化製品大国日本から来た私が、驚くほど古そうなその二◯ンのカメラ・・・。

「ジャパン。35mmx45mmでお願いします。」

 

コートを脱ぐと、「あなた、マフラーも取った方がイイヨ。」

はい、とります、とります。そして鏡チェック。

 

「前髪これでいいっすかね?」

 

「眉毛見えたほうがイイヨ。」

 

言われるがままに所定の場所に座りいよいよ写真を撮るときがやってきた。

彼女は例のカメラを構え、パシャりパシャりと何枚か連写。

 

あれ?なんか震えてません?カメラがえらい振とうしているように見える。

いやいや、10年使う写真ですのでブレてたら困るんっすよ。

 

渾身の一枚を見せてくる彼女。

 

そうして何枚か取った後、一応選んですぐに印刷が出来上がった。

パスポート規定のサイズに切ってくれている間、写真の右側の私の顔の一部分になんだか白い光が反射しているように見えたがまあ、気のせいかと思って気にしないことにした。

ネットの情報によると、確か4枚10ドルだったはずだが何故か2枚で約17ドル請求される。

ぼったくりやん、と思って反抗してみたがすでにとき遅し、もう撮っちゃったから無理。の一言。

え、撮っちゃっても値段くらい変えられるよね・・・?

 

 

とりあえず、あまり納得はできないまま料金を支払い領事館に向かう。

その日は雪だったためか人がおらずすぐに対応してもらえる。

申請書を書き、写真を提出。

 

すると係りの方が、

「・・・・・。コレ・・・?」

 

「はい・・・?」

 

「なんだか光が白く反射してますねー、それとこの首のところの緑の点はなんでしょう?」

 

ん?何?それは気づかなかったぞ?よく見ると確かに首のところに焦点を当てる緑の光のようなものが見える。

 

「ちなみにこの写真どこで撮りましたか?」

 

「えっと、この近くのコンビニで・・・ワラ」

 

「ああ・・・。」

 

先ほどの出来事を説明。係りの方は申し訳なさそうに、10年使うんだったらと撮り直しを勧めてきた。

 

とはいえさっきのところでは撮りたくなかったので、とりあえず返品しにいくことに。

 

「ハローアゲイン。」

 

先ほどの女性は客と何やら賑やかにあちらの言葉を交わしている。

 

写真を差し出し事情を説明、返金してほしい旨を伝えた。

 

え?ダメなの?なんで???

と言わんばかりだ。

 

もう少し押し問答があるかとは思ったが、案外すんなりとレジに手を伸ばす中国人女性、そして一言、

 

「まあ、あんたは悪い奴じゃあなさそうだから金は返してあげるよ。」

 

イヤイヤイヤ、そのどこまでも上目線な感じさすがっす。

 

その後、予備に調べておいた町の写真屋さんで証明写真を撮影。

国別のパスポート規定写真サイズはタッチパネルで設定される。指定の場所に立ち、カメラの調整(何故かまた手持ちカメラだったが)、もちろんフラッシュの調整も素早くやってくれて、なんだか不思議な安心感。値段は4枚13ドル程だった。

少し遠かったけど、行った甲斐あり。

 

 

 

何はともあれ最初の写真の分は返金されてよかった。

しかしながら帰り道、ふとあの私の証明写真はどうなってしまうのかと心配になってしまったのであった。

 

 

パスポートは無事更新の手続きに入っている模様。

 

 

 

 

 

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雪の中を行ったり来たり。あほらし

 

 

 

 

 

 

時代にあった学び

瞑想やヨガを授業に取り入れるというのは面白い発想だ。


自分が幼稚園や小学生の時にリラックスの方法や息の仕方を教えてもらったかといえば、そんな記憶はない。

現代に生きる人は忙しく、情報社会の中にいて休む暇すらない。
忙しさが麻痺するとその方法すら忘れる。

自分に向き合って心を落ち着けること、自分の感情を表現すること、時にはコントロールしなければならないこともある。
自分以外の人にコントロールはできない。

これらは特に現代人に必要な知恵だと思う。

 

生きる力を持つことは、自分を理解し他者を認め、助け合うことに繋がる。

祝・旧正月

 恭喜發財 Gung Hay Fat Choy!!

旧暦の正月を祝う、中国語の挨拶だ。

中国を始め、日本以外のアジアの国々では旧正月というのは一年のうちで最も派手に祝う大事な祝日だと言える。

アジア人人口が多い北米西海岸でも各地でパレードなどが行われ盛大に祝われる。

 

アジア諸国で唯一新暦で正月を祝う我が国日本(一部の地域を除く)。

明治時代に新暦を取り入れ、大正時代の終わりくらいまでは旧暦の正月を祝っていたようだが、おそらく利便上の理由から新暦で1月1日の正月を祝うようになったのでは、と言われている。

近年では大型連休などに日本を訪れる中国人観光客の影響などで旧正月も浸透してきたようだが、やはり旧暦の正月を祝うというのは日本人としてはピンとこない。

 

 

そんなことで今日はクラスのみんなで旧正月をお祝い。

異文化を知ることは、他者を理解すること、コミュニケーションの力を伸ばすこと。

子どもたちが毎日どんどん成長していくように、私も前進するのみ。

 

 

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教室にはお祝いの飾りが・・日本でいうしめ飾り?

 

 

 

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工作やゲーム。漢字を教えてみたらみんな頑張って書いてた。

 

 

 

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新年の詩を読もう!

 

 

 

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中国茶作りに挑戦!どんな味がするかな?お昼には炒飯を作ってお箸で食べたね。

 

 

 

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  Learning makes progress....

自分の強み

誰しもが強み、才能を持っている。

それは、自分だけのもの。

ただ得意とか好きというだけのレベルではなく、もっと深いところにあるものだと思う。

 

それを生かした生き方ができればどんなにいいだろう。


例えば、趣味で○○をやっていたが、それが転じてビジネスをはじめ成功した、なんで話も聞いたことがあるはず。

 

しかし、自分自身でそれを知るには時に時間がかかる。
色々な経験や興味、視点を持つ事でわかることもある。
また他人の協力を求めるのも悪くない。ただ客観的な視点から気づいていることはないか聞いてみる。自分では気付きにくいこともあるからだ。
もしかすると自分だけの強みは一つや二つではないかもしれない。

 


勉強でいい成績を取る必要はない、十人十色、自分の個性を大切に。あなたはコミュニケーションを取るのが得意で友だちが多い。その人脈は財産で一生の宝だ。

そう言い続けてくれた親がいて私は幸せだと思う。

 

強みは努力をすれば作ることもできるかもしれない。それでいて、才能は作るものではく自分の中にすでに存在している何かなのである。


先日、こんな記事をみつけた。

www.huffingtonpost.jp

この先生の考えはよくわかる。

この子は自由時間に友だちと遊ぶという選択肢もあると知っていて、あえて好きな読書をするという選択をしている。彼女(もしくは彼)は「読む」という、誰でもが絶対的に得意というわけではない行動に価値を置いている。将来の社会性を心配して友だちと遊ばせようとするのはすごくよくわかるが、それは一種のコントロールでもある。


その行動は、将来の著名作家の時間を奪う行為かもしれない。
将来素晴らしい文章を書く記者の邪魔をしているかもしれない。


大げさかも知れないが、それが本人の「強み」になりえる個性かも知れないということを第三者が認めることは大事だと思う。特に子どもの教育においては重要なことではないか。

 

もちろんやるべきときにやるべきことをやるのは大切。ルールや秩序を守ることも必要。
でも自由時間の使い方は誰に決められるものでもなく、邪魔されるべきものではない。

 

その時間の使い方こそに、個人の強みを伸ばすチャンスが潜んでいる。

 

 

自分だけの価値に光をあててみる。

 

 

 

 

 

 

先生?それとも…

 その子の親でない限り完全な責任はこちらにないと無意識のどこかで思っていて、何かに頼っている。
問題をまぁいいや、いつか気づくだろうという勝手な責任放棄状態になって、それが大きく子どもに影響することを忘れる所だった。

 

昔ある友人から、お前は何を目指してるんや?教育者になりたいのか?

 

その時はぼんやり、私の夢はそんな大それたことではないと思っていたが、今ははっきりとその目指している所が見える。

 

今年から地元の幼稚園のボランティアをし始めた。入らせてもらっているクラスの先生はその道27年のベテラン。毎日先生からももちろん生徒たちからも学ぶことだらけだ。


子どもにとっての先生とは、親と接する時間より長く居ることもあり、ある意味親以上に影響力がある。
それ故、責任が伴う。

親以外の大人として、その一人の人間の人格や考え方を作る軸にもなりえるのだ。

 

では、「先生」としてどのように振舞うべきか。

 

ゲームや遊びを充実させ、生徒と友達のように親しくする。そういう「楽しい」を重視した授業に焦点を置く。

それとも、生徒が主体となって考えられるような本当の意味で学びのある授業を考える。もちろん前者は子どもは「楽しい」のだから、楽しむ。先生のことを好きになり、一緒に遊んでいる感覚になる。

それ故、自分の好き勝手な言動を始め、環境をコントロールしようとするものまで現れる。挙げ句の果てには、考えることを面倒くさいと思わせることにもなり得るかもしれない。

 

後者はより指導スキルや経験がいるのかもしれない。ただ生徒は先生を「先生」として見るだろう。例えば、やるべき時に勝手に振る舞おうとする生徒に、「今はダメ!!これをやりなさい。」とプレッシャーを与える代わりに、何が今大切で、何をしないといけないのかを問い、正しい選択をさせるのもその役目だ。

 

一つの授業に対してどちらの要素も大切だがそのバランスが実に難しい。的確なタイミングで的確な指導をしなければ、学ぶ意欲を削ぐどころか、先生の存在を認めてもらうことは難しい。

 

この人から何か学ぶことができそうだ、なにかを吸収したいと思わせることができたなら、確実にその存在価値はあると思う。

 

 

人間は本能的に学びたいという欲が備わっている。

 

プロになるには時には心を鬼にして、向き合わなければならないときもある。

 

 

 

 

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アートクラスにて、熊の絵を鉛筆で輪郭を描き、筆やスポンジでペイントしていく。

一つの説明から、何通りもの個性的なアートができる。

教育の持つ力

人の人格や考え方はどのように作られていくのだろうという私の中の永遠の疑問。

 

それを今年はより掘り下げて探っていこうと、あることを初めてみた。

現地教育機関でのボランティアだ。

ボランティアといっても私のできることは今はまだ限られていて、毎日が学ぶことの連続。

 

前から幼児教育に興味のある私に、ラッキーなことに長年の経験をもつ先生を紹介して頂くことができたのがキッカケだったのだけれど、この経験は今後の人生に大きく影響すると思っている。

 

まず、最初に衝撃だったのが、カナダでの教育方針は私が日本で受けてきた教育と全く違うという事実。もっとも学校によっても方針はさまざまだろうがあくまで私の体験に基づいた話。

 

欧米は物事に対する発想が自由で個性を認めあうことができる良いところがある。と聞いてはいたが、これまでも違うということに日本で曲がりなりにも英会話教師をしていた私にはショックだった。

 

具体的に例をだす。

 

例えば「自由時間」。もちろんそれも授業の一環だが、ただ遊ばせるだけではなく個人のスキルを伸ばすことに焦点を置いている。

もちろん、絵を描くのが得意な子もいればパズルを組み立てるのが好きな子もいる、ビー玉を転がすマシンを作ることに必死になっているグループもあれば、ままごとを楽しむ女の子たちもいる。

一つのことを無理やりさせることはない、これでなければいけない、ということもない。

それはまるで社会の縮図のようで、色んな子がいて当たり前と知らず知らずに認め合える環境がそこにある。多民族国家でさまざまなバックグラウンドをもつ子どもがいるという事も一つの要因だといえるだろう。

 

問題が起きれば先生が仲介に入って止めるのではなく、自分たちでどうすれば解決できるのかを考えさせる。

頭を打った子がいれば自分で頭をさすらせて呼吸を整える事を教える。やり方を教えて考えて実行させるのだ。

 

まだまだ脳の発達段階でそのような「自分で考える」教育を受ける事は重要な意味があると思う。

5.6歳の時点で教室ないし家庭で教えられたことは人格形成の基礎となりうると強く確信する。

 

 

古くからの歴史、伝統を重んじる日本の社会では常に誰か上に立つ人がいて、学校では先生、職場では上司、家では親など、位置付けることが当たり前で、誰かの指示で動く事が「普通」になっている。更に私たちは島国の単一民俗という事も手伝って、それが常識化し、出る杭は打たれる状態になっているのだ。

 

そしてそれが文化として根付いている。謙虚さ、品、和という日本独特の美しい文化がある一方、変える、変わるという事に時間を要するのも事実だ。

 

特に教育業界に焦点を置くとすれば、それの証拠にここ彼此10年以上前から討論され続けてきた「英語教育」に対する国の対応の遅さ。2013年から本格的に小学生に英語を教えるということになったが事実学校によってその教育基準が違うことが問題視されていたり、指導者不足、中高との連携などまだまだ問題が山積みだ。

それはあくまでも一例だが、前述した文化背景が社会、そして個人にも大きく影響しているといえるのではないか。

 

どちらが良い悪い、合っている間違っているという話ではない。

日本の教育は現に世界的にも水準が高いと認められている。そういう事情に気づいたことを生かして、その教育を受けてきた事に誇りをもち、他を真似するのではなくその良さをもって自分には何ができるのかを考えたい。

 

 

そしてそれはきっと誰もができる事ではないと、そう信じて子どもたちとの接し方を考えていこうと思う。

 

 

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Kids're doing their show and tell.

This is my new challenge and learnig.

 

一人一人が自分のお気に入りのアイテムを持参しそのアイテムの良さ、学びにつながるポイントを発表する。それに対しての質問やコメントを手を挙げて発言する子どもたち。彼らの主体性と失敗を恐れない度胸に拍手!

 

 

 

 

 

 

 

注意力散漫?

私はマルチタスクな人間ではなく、前々からちょっとドジでだらしないところがあると自覚はしていたが、最近えらく忘れることが多いし、一つのことをやっていると他のことが出来ないという事実に改めて気づいている。友達の話もまともに理解出来ないこともあるほどだ。

 

どうもただ疲れているとかいうレベルではないらしい。本気で「注意欠陥多動障害」という名の病名を調べてみた。

 

うーん。

でも、多分そんなんじゃなくて、単に脳を甘やかしすぎてるんだな。脳トレしないと、まじで真剣に。読んだり書いたり(しばらくブログもサボっていたし)計算したり、そうゆう訓練をしないと人間の脳は腐って行く気がする。腐る。

 

人間の脳は学ぶ用に出来ている。脳がなにか刺激を欲している。

 

 

 

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あぁ、脳が溶けそう…