ホットヨガ
みなさんこんにちは。
はい、わたしです。昨日吐きましたわたしです。
(このブログには不清潔な表現が含まれています。食事中の方は注意してください)
昨夜、ルームメーメイトに誘われてホットヨガに行ってきた。
初めてではなかったのでヨユーぶっかましていったのが間違い。
まず家からトロトロ歩いて行ったら思いの外遠くて、遅刻したみたい。
通常遅れたら入れないんだけど、ラッキー?な事に先生も遅れてて、「今から始めるし早よ入り!」みたいなことを言われる。(お得意の関西弁訳)
はいよ、準備を済ませ、マットとお水ボトルをしっかり掴んだ私はヨガの部屋に入る。
くっ!!くっせーーー!!!!!!
ヨガのお部屋は37.8度に設定されていて、湿度が高い。しかも男性陣の多いこと。既に汗まみれのおっさんら、ヤバヤバ。
入ったのが最後だったので、私は有無を言わされずおっさんとおっさんの間でやる事に…。嫌な予感がする。
90分も耐えられるだろうか。
最初のポーズ、まずまず。やったことあるのでわかるわかる。ポーズもバランスを崩さないようになんとか頑張ってみる。フラフラしながらもなんとか出来なくはないかな。
でも…おっさんから異臭が漂って来る。特に左の。見ると超汗まみれでグロテスクな、、(失言をお許しください)しかも私のマットに汗がたくさん飛んでくる。ひえーー
段々臭いと暑さに耐えられなくなってくる。右のおっさんも相当へたばってきたのか、「うー」とか「あー」とか「おまいがー」とか言ってる。
本来なら身体伸ばして、汗かいて気持ちいいー!となるはずだが私の集中は鼻の不快感に行ってしまい、中々ヨガを楽しめる状況ではない。
それこそオマイガだ。
心身ともに疲れ切った私はついにポーズを諦め、死んだように座っていた。
するとまた災難が。
さっきから今日このスタジオに初めてきた私を気を遣ってか、「ヘイニューフレンド、もっと足広げて」だの「手の位置が違う」だのやたらめったら私に厳しいインストラクターがこうまくし立てる。
「ヘイ、ニューフレンド!諦めんな!まだポーズはあるぞ!君は日本人だろ!次は君の得意な正座だ!さぁ座って。ビクラムというのはインドの言葉だ。日本でもよく知られているだろう?日本人は真面目で忍耐強いはずだ!!」
いや、すいません先生。わたくしそのテンションについていけませぬ…。
トランクス一丁、胸と背中に別々の家紋のような刺青をいれたその男は執拗にわたしを攻めて来る。
うつ伏せに体を倒した時、胃が圧迫され一気に吐き気に支配される。
扉を指差し、「出ていいか?」というサインを送ってみる。
「あかん、今出たら死ぬぞ!!」
くらいの勢いのスパルタインストラクター。
いや、今出なければ死にます。
扉をでた瞬間トイレに駆け込み
おえーーーっとでるでる。
そしてその後、頭と鼻の激痛が就寝まで続く事になる。
他の生徒さんたちは体を心配してくれるのかと思いきや、「最初はみんなそうだから、わたしもしんどかった。でも次は頑張ろうね。」
「うーん……失笑。」
怒涛の90分が終わり、私のところに来たトランクス家紋は何を思ったのが、「明日もくるよね!ナイストゥミーチュー!!」と去って行った。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
と、いうわけで。久しぶりのホットヨガは九死に一生を経て幕を閉じたのであった。
本能と知性
「自分の感情の責任の所在は完全に自分にあって、他人にそう「思わされている」という考え方は嫌い。「不快にさせられている」のではなく、自分が勝手に不快に思っているだけ、と考えれば、他人を変えようという考えがなくなり、自分の考えをシフトすればいいだけなので生きやすくなる。自分の中のネガティブな感情が少なければ少ないほど、自分のストレスは減るので、他人のためというより、むしろ自分のためになる。」
*引用本能を知性で乗り越える<バイリンガルニュースMamiの文字おしゃべり>Mami - 幻冬舎plus
以前からブログのテーマとして取り上げている、セルフコントロールについての心の持ちようと考え方が納得するようにまとめられている文章を発見したので紹介する。
ストレスで息苦しくなる感覚は今も覚えている。
それは一番健康に良くないし絶対に避けたい。
日本で10年間の社会人経験から学んだ。
だから今、あの時の、20代の自分を客観視してそう思える。
我慢することのストレス、やらされることのストレス、そして社会が作り出す無言のプレッシャー、それらは嫌というほど身をもって感じた。
嫌だ、とわかっていても見ぬふりをして先に進んでこれでいいと自分に言い聞かせることで自然の感覚が麻痺してくる。日常の忙しさがまたそれを加速させる。
自分の考えをシフトするには環境の変化や人との良い出会いがなければ実践することは難しいかもしれない。
無論、社会や他人との関わりあいの中でしか「自分」を見出すことはできない。
だから見極めることが大切。自分になにが必要か。
ただ環境が変わると、物事の見方が変わる。
それは誰がやってくれることでもないし、待っていても天から降ってくるものでもない、と思っている。
例えば今、仕事かえりに電車の中で下を向いて携帯の画面からこのブログを読んでいるとしよう。
休みの日に早起きしてコーヒー片手にパソコンで読むのと読んだ感覚が違うと思う。
環境を変えるってのはそんな小さなことでもある。
10年社会人も良い経験だったし、別の見方ができるということに気づけた今
は案外気が楽だ。
そういう意味でも今の立ち位置や自分の決めた生き方がわたしに合ってると思っている。
自分のため、そして自分の大切な周りの人のために生きられる知恵を付けよう。
日々私をつくるもの
周りの環境がどう自分に影響を及ぼすかを考える。
人はそれに対して案外無頓着であるようだ。
こんなこと言われた。腹がたつ、何か言い返してやろう。
まぁいっかそんな対したことじゃない。
状況の受け止め方は人によって様々だけど、物をいうにも礼儀いうものがあるし、組織の中の立場というものもある。逆に言いたい事を我慢をするのも精神衛生上良いとはいえない。
客観的に自分の置かれた状況を理解して、言動に移すことを考える。
特に言葉の力は偉大で、大きく他者に影響を与えることもあるからだ。
そして、自分の意見を他人に伝えるというような会話を持つ際は、常に相手に対しての感謝や尊敬を忘れてはならない。
社会や組織の中にいると、全ての人と自分が上手くやれるはずはなく、どうしても意識疎通困難な輩もいる。(いつかのブログ”怒りのコントロール”も見てね)
中には敵も存在するかもしれない。
そんな自分に良くない影響を及ぼす類のものを近くに置いておくと知らず知らずに自分の中に侵入してくるのだ。
反対に自分にとってプラスになる環境を作り出すことの効果も大きいと言えるのではないか。
だからこそ自分に良い影響を及ぼす人や物だけを周りに置いておきたい。
でもそんな考えは勝手で社会で生きていくには無理だし、学ぶ機会も逃してしまう。
日々の人間生活のコミュニケーションで多くの人と関わることで自分を知り、相手を知って、よりよい環境が築けるように意識的にしていく必要があると思う。
一日の最後にその日の素敵な出来事を思い出しして感謝し、また朝がきたら自分の為になる活動をする。そして自分を高めてくれる人と出会い話をする。
そんな生活サイクルを心掛けようと思う。
野菜と果物中心の生活。タンパク質も忘れずに。
Trying to eat clean+Easy workout
詩の世界~Japanese poets north of 49th~
詩というと、日本では小学校の授業を思い出す人も少なくないと思う。
日常生活とは掛け離れたところにある一種の空想みたいなところにある、そんな存在だと考えるのはどうも私だけではないらしい。
ここカナダでも詩というものはそれ以上にポピュラーでもないようだ。
そんな”詩の世界”をもっと身近に感じれる、というイベントが行われるという。
今回、日本の有名な詩人を招き、日本ーカナダを繋ぐ詩の世界を体験するという初の試みに参加した。なんでもふとしたきっかけで知り合った友人がその主催者の一人だというのと、私も今になって日本語の読み書きに興味が出てきたという理由からだ。
イベントはバンクーバー在住の詩を読むプリン屋、高山宙丸氏と今回東京から遥々来加したという桑原滝弥氏、二人のプロ詩人パフォーマンスから始まる。
歌でもなければ劇でもない。
しかしなんとも言えない独特のリズムに魅せられる。
頭で理解しようとしても知識として知っている言葉の持つ意味と繰り広げられる表現の世界のギャップがあり過ぎて無意味に近い。
人間の想像力の幅はとても広く脳は小さいのにどれだけの密度があるのだろうかと思う。そしてそれが表現出来る才能がある、というのは特権ではないか。
詩は感じるものだ、とよくいうけれどこれもアートとして捉えると頷けるかもしれない。
後に観客からのリクエストワードで作った即興詩を英訳してみよう!というワークショップを体験するのだが、言語で表現される微妙な気持ちのニュアンスは日本語でも英語でも難しいと感じさせられることになる。
それぞれの感性や発想もそこから出てくる発言も他者にとってみればまた新しい。
どちらの言語でも自分の語彙力、表現力の幅がないことに驚く。
まず日本語を母国語とする参加者の間で言葉、文章のニュアンスを汲み取り分解する。
そしてそれを英語で英語を母国語とする参加者に伝えることで、じゃあこんな英語の表現を使ってみようか?あぁ、いいかも、なんかしっくりくるな。
でも更にこういう言い方にしてみてもいいかも?などというような大人な言葉遊びを通してまた、新鮮な国際交流を図りながら詩を楽しむというまさに一石二鳥な体験ができた。
今回このようなまた違った形で言語と向き合い、そのツールの存在の大きさを改めて感じた。
特に日本語という言語、そこにある言葉の力の強さは魅力的だ。
やはり日本語の国語は奥が深く、美しく、そして楽しい。
「バナナ」という即興詩の英訳をチームに分かれて行っていく。
We tried to translate the improv poem.
桑原氏のご指名に授かり、デュオで詩を読んでみる。
It was honored to read Takiya's poem together.
群青の海へ〜日本の旅〜
バンクーバーは本格的な雨の季節に突入しようとしている。
そんな時は、、本を読むに限る。
今日のタイトルは瀬戸内出身の画家、平山郁夫の自伝風エッセイから拝借している。
日本で好きな旅先は、「しまなみ海道」だ。本州と四国の間の瀬戸内海に浮かぶいくつもに連なった島々を総称してそう呼ぶ。
その数400以上にもなるという。
内、西瀬戸自動車道が通る沿線の地区に4.5人々が暮らしている島があり、それに魅了されもう何度か訪れている。
安宿や民宿に泊まり、昼間はサビついた昭和の自転車を借りてそこらへんを散策して回り、夕方には宿に帰って地元の新鮮な魚介料理をたらふく食べて温泉に入りのんびりする、という旅だ。
たくさんのお金は要らない。
ただそこにある空気や景色、レモンの香り、人々との交流や作り出される料理を楽しむ。
それらは美しく、懐かしい安堵感を感じさせてくれる。
「平山郁夫美術館」は島々の中の一つ、生口島というところにある。
平山画伯の出身地として知られている島である。
初めて訪れたのは初夏の雨の日だった。ガラス張りのロビーから見る外の景色が印象的だった。滴り落ちる雨の雫と明るい色の紫陽花がまるで一つの美術作品のようだった。
旅するように絵を描いた平山画伯の作品に一つ一つに心を打たれたのを覚えている。
東京、広島、山口、山梨、京都、そして瀬戸内。
この世に存在しない、深い群青を生涯をかけて表した絵画たち。
広島での被曝から仏教画とシルクロードの旅を通して人生の哲学を説いたこの本は、読めば読むほど味が出る。自分と時代も職業も旅した場所もまったく違う作者の価値観、人生観に共感することができる不思議な感覚。
雨のバンクーバー。
バスは酔うのでオススメしないが、空いた時間に活字と向き合ってみるのもまたよし、だ。
本はその時々の自分の置かれた立場やタイミングによって前回読んだ時と感じ方が違ったりするので面白い。
瀬戸内海とイングリッシュベイはつながっている・・・
アメリカ大統領選
アメリカ大統領選まであと1ヶ月ちょい、ってことで、世間的にお熱い話題。
先日行われたヒラリー&トランプの第一回テレビ討論会はアメリカ国内史上最高の1億人を超える視聴率となった。アメリカ大手のエロサイトのエロ動画の再生数もこの日この時間だけは急減したという調査結果も出ている。
それほどまでにこの大統領選は関心を集めているようだ。
90分の討論の中で、雇用、経済、関税、安全保障、銃規制、テロ、人権問題、地球温暖化、トランプ失言までに話が及んだ。
私が政治関連について言及することは専門でないのでできれば控えたいのだが、パフォーマンスとしてのこの討論会の二人はどうも滑稽に見えてしかたがなかった。
日本の国会中継ほど面白くないものはないが、(昼間にやってるのもあるが視聴率は全世帯の2、3%ほど)相手をおとしめるという点では同じ。
やはり政治の世界ってそんなもんなんか。NHKとかでやっている動物の「弱肉強食」の動画をも思い起こさせる。
さすがに次期米大統領候補争いということで、お互いの価値観を言葉巧みに表しているのだが、ヒラリーの方は意味不明な自信満々の奇妙な笑いを浮かべ、トランプの方は終始体を揺すり気まずい反論を繰り返すなど、金持ち特有の落ち着きがない。
日本のゆる〜い教育と真面目さが作る平和が、今欧米社会に乗っ取られようとしている。日本人の勤勉さは特に戦後から現代社会を猛烈なスピードで作ってきた。
その一方で成長しすぎた現代日本社会が世界から取り残されているとも言われている。
真面目すぎるが故、日本の雇用、社会、教育が危機だということを気づきにくい。
特に資源がない日本では、各種製造技術以外に教育により子どもたちの視野を広げることが大事になってくると思う。このまま流れに身を任すことによって、自分たちの生活に危機が迫っていることを知らなければ、国際社会から現在鎖国を続けている状態をしらなければならない。
言われるがままに上昇する物価、高い税金を払い続け、政治の方向性によって、さらなる戦争だって起こり得ることを危機として受け止めなければならない。
日本人は教育によって知っている。戦争がどれだけの影響を国に及ぼしたのか、しかし知識としてあるならば、次には起こすべき行動だ。
次世代により良い環境をつくること。
「思う」から「考える力」を養うことこそが、それが私たち大人にできることだと思う。なにかを考えればわかることがあるし、やるべきことが見つかる。
この情報社会において、たくさんの選択肢があるからこそ、自由があるからこそ、見失ってはならないものがある。
そして何度もいうが、何を信じ、考え、行動するかは自分自身にかかっている。